
「日本の地価は、右肩下がりに値下がりしてるな。バブルの頃が異常だったんだろうけど」新聞から目を上げて、父が呟く。お茶を淹れてそっとかたわらに置くと、老眼鏡の奥の瞳が瞬いた。「あの頃、銀行は金借りてくれとうるさかったものだが、手を出さなくて正解だったかなあ」頂き物の羊羹をひと切れ差し出す。「でも自宅のためだけなら、地価が下がるのは悪いことでもないでしょう?」
「まあ、そうだけどな。税金は安いにこしたことはないし」父は何だか悩ましげだ。「あの頃、もう少しで買いそうになった土地があるんだが」今、どうなっているだろう?買わないでいてくれて良かったと思いながら、私は頷いた。「転売して儲けようと思ったんじゃないんだ、山だしな」山?「その山は、ほぼ手付かずの山なんだ。手を入れたいのは山々なんだが、難しいんだろうな」そしてしばらくの沈黙の後、「見てこようかな」と言ったのだ。
あれから父は軽トラを運転して出かけて行った。畑作業に忙しかった私は、父のことなどすっかり忘れていた。畑と言っても庭みたいなもので、自宅で食べる物を少しづつ作っているだけだったけれど。そう言えば、この家や庭と裏山に続く自然環境が気に入って買ったのも父だった。それまで住んでいた町中の家を売り払い、ここに越してきたのだ。私も母も最初は戸惑ったものの、楽しんでもいた。
夕方、陽が落ちてから父が帰ってきた。囲炉裏にかけた鍋から味噌の良い匂いが漂う。炊きたてのご飯と糠漬け、野菜たっぷりの汁物。我が家の夕食はこんな感じで、父も私もそんな食事が気に入っていた。時には父が釣ってきた魚が加わることもあったけれど。「あの土地だが」さあ、きたぞ。「組合を作って、保全していくことになった」要は出資すると言うのだろうな。「町の補助も掛け合ってみるつもりだ。今度、自然を守りながら何が出来るか会合を持つ。お前も一度見てみないか?」父がそんなに入れ込む山ならば、一度見ておきたいと思う。自然は私たちに残された、かけがえのない資産だから。